小説の中の方言

★徳川園で池の傍に立ったら寄ってきました。
えさはないよ~~

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皆様 おはようございます。
大変な週末でしたね。地震の被害にあわれた方は大変でしょう。
しばらく晴れた日が続くといいなぁ、と思います。
雨は、地震で緩んだ地盤への影響が心配だし・・・何よりこういうときの雨は気が滅入りますよね・・・。

私の週末ですが。
早く読みたい」の記事で書いていた本が、届きました。
4月中旬だったのに、なぜ早く届いたか?
これと一緒に、その2・3日前に頼んだ「中国語ジャーナル」の「インタビューセレクション」が届いたところを見ると、送り先がいっしょだったからかなぁ。

じゃぁ、なにかい?
在庫はあったわけだ。

1冊だけだったから後回しされていたのかなぁ。。。なんていったらちょっと意地悪かなぁ(笑)
とにかく、早く届いてよかったです。

九月の寓話』(張煒/著 坂井洋史/訳 彩流社 2007年)
この本、好きな作家であったというわけではありません。
むしろ、購入するまでどんな人かも知りませんでした。

私が読みたかったのは、「訳者解説」
この項に小説の中の方言の取り扱いについて解説が述べられているからです。

私が今見ている作品の修改について、以前「葉聖陶の場合」という記事を書いたときに

中国語は五四運動から始まった文学革命により白話で書かれるようになりました。
しかし、それまで書かれていた文言を完全に払拭できるものではなく、古白話や近代白話、西洋化した言葉まで入り混じる文章だったそうです。
その上、この作品を書く前まで葉聖陶が生活していた地域の方言の影響も受けていました。
それを50年代の規範化にのっとって変更を行ったのです。

と書きました。
過去の作家が規範化の流れに沿って捨ててきた「方言」という表現と、現在、張煒などの当代の作家が改めて書いている「方言」を使った表現方法に違いはあるのかな、中国文学における方言の取り扱いってどのように変わってきたのだろうか、ということを思いました。

短絡的に思ったのは自分自身に対する「自信」
日本も戦争に負けてから外国の摸倣のような時期があり、それから経済の発展に伴って自信をつけ、今は「日本」を前面に押し出した文化を作り出す・・・という流れになっているという印象があります。

でね、「方言」も自分自身を表現する一つのツールだと思うのです。
私は生まれも育ちも名古屋ですので、言葉は「名古屋弁」食べるのは「味噌カツ」「味噌煮込み」野球と新聞は「中日」(笑)
・・・それはさておき、方言を使うと飾らない自分を表現できるような気がするんですよね。
規範化以前に書かれた方言というのは、私が無意識に話す名古屋弁。
たとえば
「机をつる」・・・学校の掃除の時間、机を教室の後ろに移動させること。
「放課」・・・授業と授業の間の休み時間のこと。だから「放課後」の意味が最初は分かりませんでした。いわゆる「放課後」は「授業後」かなぁ。

これを公の文章に無意識に記述。その後、共通語に明るい人に見せたら「これ、皆に分かるように書き直して」って言われたのが五四運動から規範化後の流れで。
最近の方言の取り扱いは「この言葉は方言」と、書き手がその独自性を強く認識した上で書くものではないかなぁ、という印象を持ちました。
当代文学における「方言」は多分、「計算された方言」「使うべくして使った方言」のような気がします。

で、ここで思考が止まっては文学勉強中、とはいえませんね。
このことに限らず、こういう思い付きの証拠を原典などから沢山見つけてきて、それで皆さんを納得させるように書く。
論文ってそういうものなのかなぁ・・・と思って。
ずっと長いこと考えていた「論文」と「感想文」「レポート」の違いにひとつの結論が出たような・・・これはおまけだけど。
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