広がる新訳 現代の感覚(海外児童文学)

12月5日の日経夕刊の文化欄に海外の児童文学における新訳の流れについて記事がありました。
最近の新訳の流れは児童文学についても例外ではなかったようです。

印象的だったのは過去の翻訳の考え方について

「当時は子供の読むものなので多少の改変は良いと考えていたのだろう。翻訳の考え方が今とは違う」

という文言があったことです。

大きく変えた点について、言葉の位相の変化に対応したり(昔よりは男女の言葉の違いが薄れている)リズムを大切にして読みやすくしたり、当時はそのまま書いては理解されにくかった固有名詞をカタカナ語(「おやつのパン」を「マフィンのままにする)にしたりしたそうです。
その本が日本に入ってきた当時と比べて日本語も生活も大きく変ってきて、それに対応したものであることが分かります。
たしかに、私が小さいころ読んだもので、女の子が「~よくってよ」などと言っているのを読んで、どこの世界の言葉だろう、と思った記憶がありますし、今でも翻訳が変れば、もっともっと読まれるようになるのになぁ、と思うことがありますので、これは私の独りよがりではなく、この仕事に携わる誰もが思っていたことだったのでしょう。

また子供に手にとって貰うために装丁にも変化がありました。
挿絵を漫画家が書き、大人が考える海外の名作とはイメージを一新しているそうです。

「新訳が広がる背景には、児童書の市場が縮小していることもありそうだ」

子供の絶対数が減りつつある中、過去のものに新しい息吹を吹き込み、新しい文学として改めて光を当てるという意味があるのだと思います。
それは大人が読む文学の「新訳」という流れと何ら変るところはないと思えます。

私は読書家ではないので、そんなに沢山の作品を読んだわけではないですが、自分が勝手に考える名作の定義は、自分の立場が変わっても、時がたってもその作品の魅力が色あせない、ということがあります。
若いときはその作品の中の若者に共感し、年をとったらその時の自分の年齢に近い登場人物に気持ちをこめることができるのが名作なんじゃないかな、と思っています。
ですから、いつの時代に読んでも何か感じることが出来る名作が読み継がれていくのは大事なことだと思います。そのための「新訳」の流れだとしたら、非常に良いことだと思います。

私が今「新訳」で刊行された作品を読んでも子供であった当時の気持ちにはならないでしょう。
村岡花子さんの訳(例えば「赤毛のアン」)が私の記憶にあるように、「新訳」がこれからの子供の記憶に残っていくことだろうと思います。
でも、印象や受け取る側が変わっても、作品の本質自体が変化するわけでは無いと思います。
読み継がれることに意味があって、そうやって作品が読み継がれていくのだなぁと思うと翻訳の仕事は意義あるものなのだなぁ、と思います。



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