皆様 こんにちは。
夏らしい日になりましたね。
今日は午前中、美容院に行ってさっぱりしてきました。
もう2ヶ月近くも放置してありましたので。
最近、苦労が多い(?)のか白いものを指摘されることが多く・・・。
本当に、ここ最近のことなんですよ。だって、前々回美容院に行った時には美容師さんに。
「本当に白髪の一本もないねぇ」と、言われたばっかりですもの。
一年ほど前に黒髪に戻してみたんですが、またカラーリングをしてみました。
「(今のカラーリングは白髪には色が乗らないものもあると聞いたので)白いのも染まりますよね」と口走ったわたし。
あぁ・・・こうやって年を重ねていくのね・・・(涙)
今日の御題は。
『近代中国の思想世界ー『新青年』の群像ー』
(岩波書店 野村浩一:著 1990年)
《新青年》のダイジェスト版を手に入れましたから、あわせて読んでおります。
著者の略歴を見ますと。
1930年京都府に生まれる。1953年東京大学法学部卒業。現在立教大学法学部教授。中国近代・現代政治思想史専攻。
中国近代の展開の過程を政治と思想の接点に探り、その特質を西洋・日本との幅広い比較と強い現代的関心のもとに究明している。
・・・とあります。
そのせいか、文学というよりは社会科学分野が主題となっております。
昨日、紹介した『回眸《新青年》』の社会思想・哲学思潮の2巻が関係しております。
でも。
こんな事を言ったら。
プロの研究者を舐めるな!と言われそうなのを承知で申し上げますが。
古代中国の思想にも半端でない知識をお持ちなんだなぁ・・・と思いました。
す・すみません・・・失礼の段、平にお許しください。
と、申しますのも。
第2章『新青年』の世界・その重層性
の一部分。
李大の「青春」は、その思考の構造において、さらには思考の用具としての「語彙」において、むしろ驚くべき伝統的である。
とあります。
つまり自らの思考の先進性や過去の伝統からの呪縛を脱することを訴えようとしたのにも関わらず、「孔子や荘子が思考の骨格を形づくっている」ということを表しております。
それとあわせて。
私はテキストで以前、文学革命の胡適の「八不主義」は伝統的な文言を否定して白話を用いることを提唱したものであるが、そのもの自体は文言で書かれていた、というのを読んでその知識を得たわけですが。
それらはつまり。
文言と白話の区別が知識としてだけではなく身についていないとこんなことに気がつくわけないんですよね。
同じように、「語彙」が伝統的であるかどうかって事も。
そもそも伝統的な語彙を知らなきゃ、気がつくわけもない。
テキストに関して言えば、それを勉強したとき、「へ~、そうなんだ」と思って。
単位を取るのに必要だから覚えたには覚えたんですが。
それ以上の事なんて考えてなかったなぁ。
テキストでさらりと書いてあることも、それを発見するまでには途方もない身についたものの蓄積があったのだろうと・・・あ~、気が遠くなりそうです。
でも、ある古典の先生はおっしゃいました。
「先人が発見して定説となっているものは知識として使えばいいのです。」
そうですよね。全てを自分でやろうなんて考えたら(そんなことは不可能ですが)辞書ですら使えなくなってしまいます。
それを踏まえてもな、う~ん・・・凄みを感じてしまいました。
私のテーマは「書き換え」なんですが。
違いに気がつくというのは、勉強の「基本のキ」なんだと思います。
文献の比較はその文献の位置づけが分かってないと違いを取り出せても、違いの意味するところが分からないんですよね。
だんだん、気が遠くなってきました。
でもまずは「中国語」なんだろうな。
なんたって、ツールですもんね。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
う~ん・・・言われてみれば・・・複雑だ。
苦労白髪もいやだし、老化白髪もいや。
でも、年齢的に言って、老化白髪の可能性がきわめて高いのよ・・・(涙)
カラーリングをして見えなくなったから、ちょっと最近忘れてました。白髪のこと。
こういうのを「臭い物に蓋をする」っていうのよね。はっはっは(笑)
私も3本あるであろう白髪に悩んでます。
でも悩んだら増えそうだし・・・・。
お勉強分野はどんどん難しくなってきて私にはとんと分からない世界に突入しているようです。^^;。頑張ってくださいまし。