年末のご挨拶

本年も本ブログにお越しくださり、ありがとうございました。
お世話になった皆様、ありがとうございました。

本年は地震があったりいろいろ大変だった方もいらっしゃるかと思います。
私は地震の影響は直接は無かったのですが、余波みたいなもので少なからず影響がありました。

そんななか良かったことは、新しい職場が決まったこと。
仕事にはまだ慣れませんが、時間が解決することですので、会社の人との人間関係も含めて一日一日の積み重ねだと思っています。

あとは、少しだけ勉強以外で中国語との関わりができるようになりました。
これも焦らず、一歩一歩進めてゆきたいと思います。

来年の抱負みたいなものを少し・・・。
とにかく新しい仕事環境に慣れて、自分のリズムを早く取り戻したいです。
何か新しいこと・・・と言っても、もう新しいことはいいかな。
これまでどおり、自分のペースで勉強して、仕事して家事をして・・・淡々と毎日が送れれば、それでいいかな、と思っています。

では来るべき新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。
みなさんに取りまして、良い一年となりますよう、お祈り申し上げます。


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女43歳の転職

今日で有給も消化でき、明日は半日出社すれば今の契約は終了、あさってから新しい会社に出社します。
私にとって初めて(といってもいいくらい)の就活でした。
新卒のときはバブルで全く苦労しませんでした。
その後はバイトだったので、応募したところにすぐ決まる、というパターンでした。
よい機会なので、改めてこの半年間のことを記録しておこうと思います。

現職(明日で終わる)のは半年契約の契約社員でした。
この会社では7年ほどお世話になり、アルバイトから契約社員。
大きな不満もありませんでしたし漠然とこのまま行くんだろうなぁと思っていましたので、8月の契約時に「今回限りで」といわれたときは、大きな驚きでした。
それでも最初はあまり実感も無く、でも事実は理解していましたので、次を探さなきゃ、という焦りばかり先にたっていました。

このときにやったことは、インターネットで応募の出来る転職サービスへの登録でした。
履歴書と職務経歴書を入力しました。
最初は何をポイントにしてよいのかも分かりませんでしたので、思いつくままに入力して作成しました。

そこから私の就職活動が始まりました。
私は・・・どこか「夢を食べて生きている」というようなところがあって、悪く言えば浮世離れしている部分があります。
また、新卒で総合職で働いていたこともあって、子供の手が離れたら総合職で仕事をしたい、中国語も生かしたいなど希望はいろいろありました。
ただ心の片隅では無理かもなぁ、という気持ちもどこかにあって、これまでやってきた営業事務もしくは一般事務にも応募と両方していました。

結果・・・。総合職関係はほとんど速攻で「お祈りメール」が届きました。
また、一般職(女性をターゲットとしている転職サイトで応募)関係も11月中旬までは書類すら通りませんでした。
すこし感じたのは事務関連はブランクOKが多く、年齢としては30台前半の女子を狙っているなぁ、というのがありました。
年齢で切られてはどうしようもありません。
それから、Word・Excel入力さえできればOKというのがほとんどで、43歳の私をわざわざ採用するメリットは無いように感じました。
つまり、いくら私が「中国語OKですよ」「Accessも多少できますよ」と強みを言った所で、求められない仕事ならば仕方ないのです。
しかも、両方とも学校で習ったものではないので、実績としてはあまり意味があるとは思えませんでした。

11月末までは面接をしてもあまり前向きな話が出ることはありませんでした。
そのときは気がつきませんでしたが、面接をするにしてもある程度絞っているので、あった瞬間「これはダメだ」と思われたら後ろ向きの話しかしないのかもしれません。
つまりこちらを試すような言い方のように思えました。

そして派遣という働き方を考え始めたのもこの頃です。
派遣であればある程度「中国語」や「Access」をキーワードに仕事をすることが出来ることも分かってきました。
時給もそれなりに良かったので、正社員がダメだったらこちらも視野に入れようと派遣会社に登録をしました。
派遣会社の反応は良かったです。
現職(明日で終わる会社)に入るときも派遣会社に登録したのですが、当時とは全く扱いが違いました。
当時の方が7つも若かったのに。
派遣会社では私の経歴と能力(と言っていいのかわかりませんが)を重宝がってくれましたし、引き合いも実際ありました。
いざとなったら・・・という選択肢が増えたことは自分自身の余裕につながったのは間違いないです。

その余裕がそうさせたのか分かりませんが、職務経歴書で「私は、こんなこともあんなことも出来ます」というような、前のめりな書き方を改めました。
そのときは「今までやってきたことを理解してもらえないなら書いてもしょうがない」という気持ちでしたが、結果的に一歩引いた姿勢が採る側・自分双方にとって良かった様です。
あと、考え方としてお世話になれる会社は1社なんだから、内定は複数必要ない、と割り切ったこともありました。

気持ちの余裕ができたことで、周りを冷静に見わたせるようになりました。
そのほか、入社出来る時期が迫ってきたことも良いほうに働いたと思います。
3社とも急募でとにかくすぐに働ける人を探していましたし、実際、中途で取り立てて特徴が必要でない職種につく場合、「1週間後にはいけます」ぐらいの人を求めているようです。

結果的にその後3社から内定をもらい、明後日から行く会社にお世話になることにしました。

内定をもらった中から、会社を選ぶ決め手となったのは「長く続けるに無理の無い通勤時間と現実的な仕事内容」に尽きました。
家族も口では「仕事に最大限、協力する。残業が多くても休日出勤があっても大丈夫」といってくれていましたが、ずっとそれが出来るか、というとちょっと疑問がありました。
私自身、時間的にも能力的にも背伸びしながらする仕事だったら、家事との両立はきついだろうな、ということが分かってきましたので、それで決めました。

それから、これまでと大きく違ったのは「何も中国語にこだわる必要はない」ということです。
もちろん、翻訳は続けていきますし、希望が変わったわけではありません。
ただ期限を決めてやらなくても続けていれば自然と道が開けることもある、自分だけがしゃかりきにならなくても、周りの状況も変化する、ということが実感として分かってきて焦りがなくなりました。

それは、とある翻訳会社に呼ばれて行ったとき、ありのままを実績として理解してくださったことがあります。
本を訳したこと、ボランティアがほとんどだけど、数年前の扱いとは全く違いました。
派遣会社でも、自分のしてきたことを重宝がってくれて、若いときとは違う感じをうけました。
何と言ったらよいか・・・つまり、自分のやってきたことは今は役に立たないかもしれないけど、あながち間違っているわけでもなかったと思えたことも大きいです。
このまま続ければ、(どんなものか分からないけど)何かの花が咲く、と思えました。

また、先のことをあれこれ考えても願ったとおりになるとは限りません。
毎日毎日をなんとか暮らしていく、というのが生活なんだと思います。
幸い、家計は夫が支えてくれていますので、私は家族の健康を守りながら、自分に出来る範囲での責任を社会で果たせたらいいなぁ、という現実的な道を選ぶことにしました。

これが正しかったかどうかも分かりません。
とにかく一日一日と思ってやっていくつもりです。
私は私なのですから、今出来ることをキチンとしていれば、必ず良いご縁があると思った就職活動でした。

今となれば、この半年は自分と向き合う良い機会になったと思います。

東京の旅二日目

10時ごろ家について、やっと落ち着いたところです。
今日も引き続き、東京の旅。

昨日よく歩いたからか、朝から足が痛くて仕方なく、疲れが取れていませんでした。
チェックアウトギリギリの10時ごろまでホテルで、ウダウダしました。
ムスコは早々に秋葉原に旅立ち。
新日本橋のビジネスホテルでしたので、本人曰く「歩く」と。
確かに地図を見ると歩けない距離ではなさそうでした。

少し遅れて私も出発。
東京駅のコインロッカーに荷物を入れて、お昼ご飯で落ち合うために秋葉原に。
少し時間があったので、ぶらぶらしようと思ったのですが、とにかく足が棒のようになってしまったのと、人の多さにうんざりして、駅近くの本屋さんで立ち読みをしながら待ちました。
お昼を食べたら幕張に移動するという息子とお昼。
彼と別れてしまったら、用事も無いので、丸の内の三菱一号館美術館で「ロートレック展」を見ようと思って山手線に乗りました。

そしてまた、東京駅をうろうろ。
本当に東京は交通機関が大変です。とにかく駅が広い。
名古屋の感覚で駅を歩いていると完全に読み違えます。
どこまで行ってもたどり着けないと、不安にもなります。地下道でも少し寂しいところもあるし。
話が前後しますが、名古屋について新幹線から桜通線に乗り換えたとき、しみじみと「やっぱり乗り換えはこれくらいの距離がいいな」と思いました。

そして丸の内。
すごくおしゃれな街で私はちょっと場違いな感じ。
三菱一号館のあたりはまるで別世界のようでした。
そして、「ロートレック展」を見ようと思って入ったところ、早稲田大学の「中国人留学生と新劇展」のチラシを見つけてしまいました。
これは早稲田まで行くしかない。
さっきまで足が棒になっていて、観光には全く気持ちがなくなってしまっていたのですが、目的が出来れば動けます。

そういうわけで初めての早稲田大学。
開催場所は演劇博物館でした。
時期は清末~だと考え、ちょうど私の興味のある頃にぴったりはまります。
雑誌「新青年」にも戯曲が掲載されて無かったかな。
島村抱月らとの交流もあって、昨日の辛亥革命展ほどではありませんが、とても興味深くみました。
同時に「日活向島と新派映画の時代展」もやっていました。
両方とも家でもう一度よくみてみたい気持ちがあって、図録を購入しました。
演劇博物館自体は無料。
他にも日本の演劇史の展示品がありましたが、こっちは不勉強なのであまり興味もそそられず、サラッとみて帰りました。

それにしても今回、さすが東京はいいなぁ、と思ったのは昨日の黒田清樹記念館や今日の演劇博物館や・・・よいものが無料で見られたりすることです。
私が知らないだけかもしれませんが、名古屋だったら無料では見られないと思いますし、これほどの著名人を身近に感じることも少ないかもしれません。
歴史をたどるなら京都、と思っていたけれど東京もいいなぁ、と思いました。
でも、やはり東京は広く大きい。
京都くらいの大きさだったら名古屋とあまり変わらないので、距離感もつかみやすいし、交通機関も使いやすい。
東京は人も多く交通機関も入り組んでいるうえに駅が広く、私の想像を超えるところが多かったので少し疲れます。
今回、もっといろいろと回れると思っていたのですが、体力的にちょっと無理でしたので、また機会があったら仕切りなおして回りたいと思います。

昨日の東京道中

昨日はメインの東洋文庫のみお伝えしましたが、今回は昨日一日の行程を記録したいと思います。

まず、6時半発の新幹線で東京に到着。
幕張へ行く、というムスコを京葉線まで見送って、ホテルに荷物を預けました。
・・・が、なにせ東京は初めての街。
しかも持っていったガイドブックの地図が今ひとつで、どれがどの道なのか分からない。
これのお陰で、全ての行程で道に迷うことになりました。
それにしても東京は坂が多いですねぇ。
名古屋は濃尾平野にあるので、坂があるといっても、あまり山を登っているという感覚はありません。
でも、東京はえっちら、おっちら坂を上っていくところが多かったです。
途中、道を聞いたおばさまも
「この坂を上って・・・」と案内してくれました。

余談はさて置き。

昨日も紹介した東洋文庫に行きました。
先ずは正面

展示物はフラッシュを使わなければ、撮影できます。
私は落書きがある本も好きです。

そしてその後は東洋大学まで歩き、井上円了を記念する展示を見ました。
井上円了(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86)は哲学者です。
迷信に惑わされない、ということで、妖怪などを研究した研究者です。
行脚した際に使っていたかばんとか、めがねなど手元においておいた品々。
大学の一角にあるので、スペースもそんなに大きくはないですが、無料で楽しめました。

お昼は東洋大学の学食でランチ。
500円でサラダ3種、チキンソテーにクリームソースをかけたものとご飯がひとつのプレートに乗ってきました。
あとはコーヒー。
ボリュームがあるので、私にはちょっと多かったですが、美味しかったです。
あとは就職活動を始めたばかりの3年生がスーツで来ていました。
でも、まだ慣れないのか髪の毛が社会と交わるにはちょっとチャラい感じの子がいたり、スーツの下からカッターの裾が出てたり・・・お母さんとしては「尻尾がでているよ」と注意したくなりました。

他にも子連れのお母さんがいたり・・・聞いてはいたけれど、最近の学食は地域に開放されているので、私が混じっても不思議がられるような感じはありませんでした。

その後は正岡子規の寓居であった子規庵へ。
ここへ行くのも迷いました。
予想してなかったんですけど、この地域はホテル街でして。
道が狭くて北京の胡同の感じだったんですけど、両脇にあるのはホテル・ホテル・・・。
同じような外観なので迷い込んだら出られない感じ。
その中のひとつに子規庵はありました。

窓がガラス張りで、日差しがさんさんと差し込み、非常に居心地の良い家でした。
足が伸びなくなった子規のために、机の一部をくりぬいて使いやすくしてあるのを見ると、晩年は大変な生活だったのだなぁ、と思います。
お庭も散策できましたが、外観以外は写真撮影不可。

その後、鶯谷駅から黒田記念室で黒田清樹(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E8%BC%9D)の絵を見ました。
ここも無料。
有名な「湖畔」も見られました。

そして寛永寺をちらっとみてまた鶯谷駅へ。

よく迷子にもなったので、よく歩きました。
一日のトータル25000歩。
さすがに最後のほうは疲れました。
では、もう一日はまた後日。



東洋文庫 辛亥革命100周年記念展示

東洋文庫で辛亥革命100周年記念展示ををみてきました。

展示品はそのほとんどが宮崎家所蔵の品。
宮崎家といえば、宮崎滔天(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9)が有名で、将に彼と辛亥革命の立役者たち所縁の品々でした。

ちょっと前までジャッキー・チェンが主役をしていた「1991」という映画がありました。
ジャッキーが扮した黄興の書とか、孫文との筆談の残稿、蒋介石の手紙、毛沢東の手紙などが展示してありました。

この時期の宮崎家は宮崎滔天と宮崎竜介の代ですが、宮崎竜介は柳原白蓮との結婚が有名だと思います。
(ご興味のある方は林真理子の「白蓮れんれん」をお読みください)
私は「白蓮れんれん」を読んだのが先立ったので、竜介のお父さんの宮崎滔天か・・・という印象がありました。

それはさておき、清末の有名人蒋介石・李大・毛沢東・孫文の直筆が見られましたが、それぞれに特徴的でした。
先ず、蒋介石。
かれは非常に繊細な文字でした。綺麗な楷書で「明朝体」という感じ。
文字からみると、ちょっと神経質そうな印象でした。

李大は、すごく力強い文字でした。伸びやかでおおらかな感じ。

そして毛沢東。
彼は少し丸っこい字のように見えました。
男手としては角々しくなく、やわらかい印象を受けました。

また孫文と宮崎滔天の筆談は紙を自分達の目の前に横に置き、両側からお互い書いていたことが伺えます。
こう言うのをみると、その場が想像されて面白かった。

ちょうどこの展示がやっているのをこちらのブログ(http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-427.html)で知り、行ってみました。
東洋文庫は古中様が紹介されているように、本好きにとっては、たまらない展示品が多かったです。

これ以外に面白かったのは史記の原本の展示。
かつて習った「ヲコト点」(字の周りに点などの符号をつけることによって、その符号の位置で助詞や助動詞など訓読の補助にする。)も書いてあるので、「このように読んだのか」と想像をめぐらすことが出来ます。
また、ここの学芸員さんが良い仕事をしていて、展示品についている説明文が非常に分かりやすく、私のような素人にも興味をもってみられるように工夫がしてあります。
しかも分かりやすい。
案内をしてくれるのも、学生さんなのかな・・・。とても親切で良かったです。

施設も綺麗で、四庫全書のレプリカが展示してあるところは吹き抜けで書棚があり、壮観でした。
こう言うところの仕事がしたかった・・・。
大学生のときは司書になるのが夢でしたから。

そんなことを思いつつ、たっぷり1時間以上(そんなに広くは無いですが)参観できました。

写真が撮れたので、また後日アップします。



外国人医療受診サポートボランティア研修5回

今日も午前中、医療ボランティアの研修に行ってきました。

まずは「患者の悲劇的な知らせに直面したとき」

ボランティアではこう言う場面にはあまり遭遇しないようにしてくれるということですが、知識として、ということでした。
でも、子供がいて年老いた両親がいるので、身につまされることもありました。
他人だとどうなのか、家族より客観的になれるのか。
でも友達のときはあまり客観的になれなかった気がします。

あとは、診察現場でのロールプレイング。
これが、なかなか・・・一筋縄では・・・。
まず専門用語が出てこない。
中国語は日本語を中国語読みすればいい場合もあるけれど、そうじゃない場合もありますし。
また、言葉は同じでも中国人の解釈と日本人の解釈が違ったりすることもあります。
そういうのをひとつひとつ理解するのは容易なことではありませんが、いろんな人の経験を聞いたり、自分も経験したりすることで乗り越えなければならないのだなぁ、と思います。

今回は日本語の台本があったので、それを見ながら中訳をしていったのですが、本当の現場では自分でメモして、通訳するんだと思うと、頭がくらくらしそうでした。
それから、久し振りに通訳らしいことをしたので、かなり「あわあわ」してしまいました。
通訳訓練は長い間していなかったので。
でも、時間的に翻訳だけで今は手一杯だなぁ。

願わくば、なるべく多く実践経験を積みたいなぁと思いました。
そして、同じ立場の人と意見交換の場を多く持ちたいと思うので、これからも関心のあるセミナーには積極的に出てみようと思いました。

用語集作り

自前の単語帳が欲しいのですが、どうしようとツラツラ考えていました。

① ノートに手書き
② パソコンで管理(自分でつくる)
③ フリーソフトでよさげなのを探す。

選択肢はこの3つだったのですが、ノートに手書き、というのは早々に頓挫。
フリーソフトも途中で探すのすら嫌になり、自分で作ることにしました。

Excelだと見難いし、こういうのはやっぱりAccessだろうと思い、作るのが嫌にならない程度の簡単なものを作ることにしました。

用語集なので、単語をためるテーブルがひとつ。
辞書の凡例にあった品詞・分野・フレーズ(成語、ことわざ等)・使われた時代も重要なのでこれらをコード化して入れられるようにして、将来は抽出条件にします。

中日なのでピンインを入れるフィールドもつくりました。
通常、「発音+四声」であらわすのですが、四声は入れようかどうか迷い中。
ピンインも抽出条件にしようと思うのですが、あいまい検索で抽出しようとおもうので、途中で四声の数字が入ると抽出するときに邪魔にならないかなぁ、と。
電子辞書でも、通常はピンインだけで抽出して四声の区別は面倒だから使ってないことが多いです。
でも四声が入っていたほうが、勉強には使いやすいし。

意味は調べたり自分で感じたニュアンスも含めて記入。
例文はその単語が使われた文章をそのまま使います。
辞書のものを転記するのでは意味が無いので。
そのほかフリースペースも最大限で作りました。
フィールドサイズは最大で225(半角)ですから110文字(全角)は入力できます。
一度登録した単語も編集できるようにして、なるべく沢山の内容を記入したいと思います。

あとはIDをオートナンバーだと連番が抜けることがあるので、テキスト形式にしてフォームを開いたときに次の番号がふれるようにちょっとした細工をしました。

入力支援は凡例を基にした区別のコードで一番オーソドックスなのを規定値にしてあらかじめ入れておくことにしました。
これでコードが抜けて抽出条件から外れることは無いと思います。
あとはタブオーダー。
テーブル自体が単純だから素直に設定しました。

それから、新語は特に辞書に無いことが多いので、チェックボックスにチェックを入れて区別します。
初回入力した日も規定値で入りますので、新語のチェックがついていても入力日から数年が経ったものはチェックを外したりするメンテナンスが出来たらいいなぁ、と思います。

まだ入力フォームしか作ってないので、単語がたまっていったら抽出して閲覧する画面を作りたいと思います。
これはある程度、データがたまらないとやる気がでない(笑)

その後どうなるかは私の勉強次第です。

【2011・12・10追記】

フィールド、英語欄を追加しました。技術系は英語から意味をとることもあるので。

美術館めぐり

有給消化中に2箇所の美術館を回りました。

ひとつは「徳川美術館」
今、源氏物語展をやっています。
毎年1回、蓬左文庫で保管している源氏物語の原本が公開されています。
それも興味があったのですが、今回は原本の模写について展示されていたことが興味深かったです。

本の保管と保持には以前から興味がありました。
昔の本は時がたつにつれて劣化していきます。
劣化を修復することも、もちろん大切ですけれど、模写して現状をありのままに後世に伝えるのも大事な仕事だと思います。
その過程が展示されていて、本当に興味深かったです。
ちょっと時間がたってしまって、これくらいしか書けなくてすみません。

それから今日は松坂屋美術館でやっている故宮博物院の所蔵品の展示を見てきました。
これは・・・私にとってはあまり興味の持てるものではありませんでした。
皇帝や皇后が着ていた服とか、調度品とか、装飾品とか・・・そういうものでした。
確かに綺麗で、贅の限りを尽くしたものだとは思いますが・・・。
でも平日にもかかわらず、すごい人でした。
清末に興味のある方は行かれても良いと思います。

広がる新訳 現代の感覚(海外児童文学)

12月5日の日経夕刊の文化欄に海外の児童文学における新訳の流れについて記事がありました。
最近の新訳の流れは児童文学についても例外ではなかったようです。

印象的だったのは過去の翻訳の考え方について

「当時は子供の読むものなので多少の改変は良いと考えていたのだろう。翻訳の考え方が今とは違う」

という文言があったことです。

大きく変えた点について、言葉の位相の変化に対応したり(昔よりは男女の言葉の違いが薄れている)リズムを大切にして読みやすくしたり、当時はそのまま書いては理解されにくかった固有名詞をカタカナ語(「おやつのパン」を「マフィンのままにする)にしたりしたそうです。
その本が日本に入ってきた当時と比べて日本語も生活も大きく変ってきて、それに対応したものであることが分かります。
たしかに、私が小さいころ読んだもので、女の子が「~よくってよ」などと言っているのを読んで、どこの世界の言葉だろう、と思った記憶がありますし、今でも翻訳が変れば、もっともっと読まれるようになるのになぁ、と思うことがありますので、これは私の独りよがりではなく、この仕事に携わる誰もが思っていたことだったのでしょう。

また子供に手にとって貰うために装丁にも変化がありました。
挿絵を漫画家が書き、大人が考える海外の名作とはイメージを一新しているそうです。

「新訳が広がる背景には、児童書の市場が縮小していることもありそうだ」

子供の絶対数が減りつつある中、過去のものに新しい息吹を吹き込み、新しい文学として改めて光を当てるという意味があるのだと思います。
それは大人が読む文学の「新訳」という流れと何ら変るところはないと思えます。

私は読書家ではないので、そんなに沢山の作品を読んだわけではないですが、自分が勝手に考える名作の定義は、自分の立場が変わっても、時がたってもその作品の魅力が色あせない、ということがあります。
若いときはその作品の中の若者に共感し、年をとったらその時の自分の年齢に近い登場人物に気持ちをこめることができるのが名作なんじゃないかな、と思っています。
ですから、いつの時代に読んでも何か感じることが出来る名作が読み継がれていくのは大事なことだと思います。そのための「新訳」の流れだとしたら、非常に良いことだと思います。

私が今「新訳」で刊行された作品を読んでも子供であった当時の気持ちにはならないでしょう。
村岡花子さんの訳(例えば「赤毛のアン」)が私の記憶にあるように、「新訳」がこれからの子供の記憶に残っていくことだろうと思います。
でも、印象や受け取る側が変わっても、作品の本質自体が変化するわけでは無いと思います。
読み継がれることに意味があって、そうやって作品が読み継がれていくのだなぁと思うと翻訳の仕事は意義あるものなのだなぁ、と思います。



翻訳課題を通して(中→日)

改めて翻訳会社の翻訳者養成課程を受講しています。
そんなに沢山の課題が出るわけではないので、あまり追いまくられること無く出来ています。。

今回書きたいのは中→日への翻訳。
私は日本語ネイティブなので、やっぱり日訳のほうが楽だろうなぁ、と思っていたのですが、これがナカナカ難しい。
まず日本語と中国語の習慣の違いによるもの。
詳しいけど簡潔に書くのが中国語、言わずもがなのことは書かないけれど、一文の長い日本語。
あと中国語の言葉をそのまま使うとすごく大げさな表現になってしまうので、少し抑え気味に表現したほうが良いとか、いろいろあります。
また自分の中で「これは略してもいいだろう」というのが、添削で「これは抜かないほうがよい」と書かれていたりして先生の意向と自分の意見が違うことに戸惑ったりもしています。

あとは言葉に対する感覚とか。
自分は普通に用いる言葉を「この意味ではあまり使わないでしょう」といわれてしまうこともあります。
そういう時は辞書で調べて、自分の意見のほうが正しければ自分の中で訂正しないで置けばよいのですが、やはり評価は人が下すもの。
もし仕事としてやっていくのであれば、読み手の意見は大事なことで独りよがりも困ります。
そのあたりのさじ加減が非常に難しく、どこまで自分の持ち味を考えたらよいのかという漠然とした悩みになります。

母国語というのは、普段何気なく使っているだけに却って難しいものがあります。
また、言葉のバックグラウンドは人によって違うので、いわゆる「標準」というのは知っていたほうが良いのではと考えています。
この規定を何処におくのかがまた難しいんですけど。



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